ベルト・モリゾ

ベルト・モリゾの小さな伝記

ベルト・モリゾの小さな伝記

印象派を代表する女性画家ベルト・モリゾは、1841年1月14日、フランスのブールジェの裕福な家庭に三女として生まれた。

モリゾの父ティビュルス・エドム・モリゾは、シュール県の知事やプールジェの市長など要職を歴任する。

もともと建築家を志していた父と、ピアニストを夢見ていた母コルネリーのあいだで生まれ育った娘たちは、経済的だけでなく芸術的にも恵まれた環境で育ち、イタリア・オペラの代表的な作曲家であるロッシーニにピアノを教わることもあった。

ベルト・モリゾの肖像写真

ベルト・モリゾが絵に夢中になったきっかけは、父に向けた誕生日の贈り物だった。

母が、娘たちの描いた絵を誕生日に贈ることを思いつき、絵を学ばせようと画家アルフォンス・ショカルヌのもとへ連れていったことで、二番目の姉エドマとベルト・モリゾは絵にのめり込んでいった。

その後、本格的に学ぼうと師をジョゼフ・ギシャールに変え、1858年、ベルトが17歳のときには、姉妹でルーブル美術館に模写に訪れるようにもなった。

ルーブル美術館では数多くの出会いがあり、特に二人が興味を抱いたのが画家のカミーユ・コローだった。

カミーユ・コローは、自然を情緒的に描く風景画が特徴で、彼の絵に惹かれたモリゾ姉妹はコローに弟子入りを志願。

また、コローからは「水の画家」と呼ばれるドービニーを紹介され、一緒にオワーズ川に写生に行くなど、風景画においてバルビゾン派の画家の影響も受けた。

コローカミーユ・コロー『モルトフォンティーヌの思い出』 1864年

シャルル・フランソワ・ドービニー『オワーズ川の中洲』 1860年

コローの指導を受けながら、ベルト・モリゾは1864年にサロンに初出品し、2点の風景画でデビューする。

女性が画家になることも珍しかった時代にもかかわらず、姉妹のために専用のアトリエを建てるなど、両親は娘たちが芸術の世界で学ぶことを支援した。

この頃、若くして普仏戦争で戦死した画家のフレデリック・バジールとの交友もあった。

しかし、ベルト・モリゾの画家人生にとって何よりも大きかったのは、のちに「印象派の父」と呼ばれるようになる、エドゥアール・マネとの出会いだった。

当時、すでにセンセーショナルな作品を発表し、批判も含め話題となっていたマネの画風に影響を受けたベルトが、マネと正式に知り合うのは1868年のことだった。

両家はもともと家も近く、お互いの家柄も似ていたことから、まもなく家族ぐるみの交流が始まる。

マネは、絵のモデルとしてベルト・モリゾを描き、ベルトの画風にはマネの影響が色濃く反映されるようになっていく。

マネの作品エドゥアール・マネ「黒い帽子のベルト・モリゾ」 1872年

仲良しで同志でもあった姉エドマが、結婚を機に筆を絶ち、パリを去ったため、ベルト・モリゾにとってエドゥアール・マネは誰よりも信頼できる師だった。

マネの影響も受けながら、徐々に自身の作風を確立していったモリゾは、アカデミックな舞台であるサロンではなく、若い画家たちで開催される前衛的なグループ展のメンバーとして参加することを選ぶ。

このグループ展というのが、1874年開催の「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」だった。

この展示会は、後に「第1回 印象派展」と呼ばれるようになる。

ベルト・モリゾは、エドガー・ドガに誘われたことがきっかけで、この印象派展に参加したと考えられている。

ちなみに、マネはあくまでサロンで評価されることにこだわったため、印象派展には不参加で、一度も参加することはなかった。

モリゾは、12年のあいだに計8回開かれた印象派展で、計7回に参加(全て参加したピサロに次ぐ数)し、メンバーの調整など事務的な作業も含め、中心的な存在になっていった。

また、第1回印象派展が終わってから半年後、モリゾはマネの弟のウジェーヌ・マネと結婚。パッシーにある教会ノートル・ダム・ド・グラーズで結婚式を挙げる。

ウジェーヌは、自らも小説や絵を描き、画家モリゾのよき理解者であり支援者となる。

そのため、結婚を機に絵を諦めなければならなかった姉と違い、モリゾは絵画制作を続けることができた。

1878年、二人のあいだに一人娘のジュリーが生まれた。以後、ジュリーはモリゾの絵のなかにもよく描かれるようになった。

それから3年後の1881年、パリに家を新築するに当たり、一時期郊外の地プージヴァルに移り、1884年の夏まで多くの時間を当地で過ごす。

プージヴァルはセーヌ川沿いにある人気の行楽地で、モネやルノワールなど印象派の仲間も、しばしばこの地を描いている。

花が咲く美しい庭のある家で、モリゾは夫のウジェーヌ、幼いジェリー、そしてお手伝いのパジーをモデルに、優しく穏やかな日常の絵をたくさん描いた。

 ベルト・モリゾ『乳母と赤ちゃん』 1880年

ベルト・モリゾ『砂遊び』 1882年

ベルト・モリゾ『寓話』 1883年

パリの家が完成すると、拠点をパリに戻し、引き続き、印象派の人々をまとめる中心的な役割も果たした。

1883年にマネが死去し、1884年にマネの回顧展を開く際も、また最後の印象派展となる1886年のグループ展の準備にも彼女は奔走した。

印象派展自体は、当初酷評されたものの、次第に評価の機運も高まり、モリゾ自身、この頃次第に高く評価されるようになった。

以後も、ベルト・モリゾは精力的に作品を描き続けた。

しかし、1892年4月、夫のウジェーヌ・マネが死去。モリゾのために最後に夫が残してくれたのが、彼女にとっての初めての個展だった。

亡き夫が準備のために尽力してくれた個展を、5月から6月にかけ、ブッソ・エ・ヴァラドンの画廊で開催する。

その後、ウジェーヌとの思い出の地で暮らすことが辛かったのか、1893年、娘のジェリーと二人でブローニュの森近くの小さなアパルトマンで新生活を開始。

ルノワールやモネ、ドガといった印象派の仲間や、詩人のマラルメなど友人たちに支えられながら、ベルト・モリゾは絵を描き続けたが、1895年、ジュリーの風邪がうつり、そのまま亡くなる。

まだ54歳という若さだった。

マラルメ、ルノワール、エドガー・ドガが、一人残されたジュリーの後見人となった。