オーギュスト・ルノワール

オーギュスト・ルノワールの小さな伝記

オーギュスト・ルノワールの小さな伝記

ピエール・オーギュスト・ルノワールは、1841年2月25日、フランス中西部の町リモージュで仕立て屋の息子として生まれる。

父レオナールは仕立て屋、母マルグリットはお針子で、ルノワールは7人兄弟の6人目。ただし上の二人は幼い頃に亡くなっている。

ルノワールが3歳のとき、一家でパリに引っ越し、ルーヴル宮殿近くの小さなアパルトマンで暮らし始めた。

美声だったルノワールは教会の聖歌隊に入り、その聖歌隊を率いた作曲家のシャルル・グノーからは歌手としての才能が評価される。

しかし、裕福ではない家庭だったため、ルノワールは手に職をつけることが求められる運命だった。

絵も得意だったルノワールは、父親の知人の工場で13歳のときに磁器絵付け職人の見習いとして雇われるが、数年後、産業革命など近代化によって職を失い、窓の日除けの装飾やカフェの壁絵で収入を得る。

その後、20歳の頃に画家の道を目指すようになり、その頃ルーヴル美術館で模写する許可も発行してもらっている。

ルーヴル美術館では、ルーベンスやフラゴナールなどの模写をし、1861年、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学、伝統的な美術教育を受ける。

教育方針に満足できなかったルノワールは、同年、スイス人画家グレール主宰の画塾に通い始めた。グレール自身は保守的な教育を受けてきた画家だったが、寛容な人柄で、教育方針も自由を重んじ、「何も助けにはならなかったが、弟子たちの思うようにさせる」のが長所だった。

この自由な教育方針ゆえに、グレールの画塾には様々な傾向の画家が集まり、このアトリエで印象派の仲間となるモネやシスレー、バジールと出会った。

若い仲間たちと一緒に、パリ郊外のフォンテーヌブローの森や、シャイイ、バルビゾンなど周辺の村の宿に泊まっては戸外での風景画を描いた。

この時代の画家にとってなによりも重要なのは、パリで年に一度開催される「サロン」であり、ルノワールもサロンの入選を目指した。

結果、ルノワールは、1864年、ユゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』に着想を得た『踊るエスメラルダ』でサロンに初入選する。

この頃、サロンでスキャンダルを巻き起こし、批判を浴びることになるエドゥアール・マネは、1866年以降、自身のアトリエの近くにあるバティニョール街の文学カフェ「ゲルボア」に通った。

マネは、サロンの考え方に不満を持つ若い画家たちの兄貴分のような存在であり、毎週木曜に会合を持ち、ゲルボアで芸術の未来について熱く語り合った。

カフェに通っていたメンバーとしては、作家のエミール・ゾラ、批評家のデュレ、のちの印象派の中心となるモネ、シスレー、セザンヌ、ピサロ、そしてルノワールもいた(親友でもあったバジールは1870年の普仏戦争で戦死)。

サロンの落選が続いた若い画家たちは、1873年12月27日に「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社」を設立。

翌年、写真家ナダールのスタジオでグループ展を開催した。このグループ展は、のちに「第1回印象派展」と呼ばれるようになる。

ルノワールは第1回から出品、「印象派」という雑誌を刊行し、論文を寄せるなど積極的に印象派展と関わった。

ただ、印象派展自体、当初は反体制的で既存の芸術観を揺さぶるものだったので批判も強く、評価が高まるまでに時間がかかった。

そのため、印象派展に出品してもすぐに成功に繋がったわけではなく、ルノワールは再びサロン復帰を試み、1879年に『シャルルパンティエ夫人と子どもたち』と『ジャンヌ・サマリー』が入選した。

批評家からは「放蕩児の帰還」と高い評価を受ける。

その後、印象派の限界を感じたルノワールは、印象主義と徐々に距離を置き、海外を旅しながら自分の作風を模索した。

試行錯誤の末、本来の柔らかな筆使いに回帰し、サロンに頼ることなく人気を獲得、ルノワールは晩年を迎える。

リウマチに苦しんだルノワールは、暖かい気候の南仏ニースに近いカーニュ・シュル・メールに別荘を構え、制作の大半は、この地で行うようになった。

手は恐ろしいほどに変形し、車椅子に座ったまま、最晩年でも絵を描き続けたルノワールは、1919年12月3日、カーニュの地で息を引き取った。

亡くなった日の朝もアネモネの絵を描いていたと言う。