印象派の由来とは
印象派ないしは印象主義とは、19世紀後半のフランスで始まった一連の芸術運動のことで、当時パリで活動していた若い画家たちのグループの興した展示会が起源となっています。
印象派展は、1874年から1886年まで計8回開催され、第1回展示会のメンバーには、印象派の中心となるモネやルノワール、シスレー、ピサロ、ドガ、モリゾ、セザンヌなどがいます。
画像 : 朝日新聞出版『印象派への招待』
技術と若さとが結実した30代の画家たちが主で、伝統的な価値観に対する芸術の革命的な挑戦でもありました。
この後々「印象派展」と呼ばれるようになる第1回展示会の正式名称は、「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」の「第1回展覧会」と言い、展示会の会期は、1874年4月15日からの1ヶ月間で、総勢30名の画家が参加します。
第1回印象派展 カタログ
印象派展の参加資格は特になく、出資金を払えば誰でも無審査で出品が可能で、印象派の代表格であるモネやルノワールといった中心メンバーの他に、先輩格で、若かりし頃のモネに戸外制作を教えたブーダンや、自然主義の画家も出展しています。
第1回印象派展の主なメンバーと年齢
クロード・モネ(1840年生、33歳):9点
ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年生、33歳):7点
アルフレッド・シスレー(1839年生、34歳):5点
カミーユ・ピサロ(1830年生、43歳):5点
ポール・セザンヌ(1839年生、35歳):3点
アルマン・ギヨマン(1841年生、33歳):3点
エドガー・ドガ(1834年生、39歳):10点
ベルト・モリゾ(1841年生、33歳):9点
ウジェーヌ・ブーダン(1824年生、49歳):6点
第1回印象派展の会場は、商業と観光の中心地であるキャプシーヌ大通りにあり、肖像写真で有名な写真家ナダールのスタジオでした。
このとき、ナダールは印象派のメンバーにスタジオを無料で貸したと言われています。
ナダールのスタジオ
写真という媒体が19世紀前半に発明され、ただそのまま写すだけなら写真で十分になっていくなかで、絵画は単なる写実的なもの以上の表現を求められるようになります。
この写真と印象派の関係を考えると、印象派展が写真家ナダールのスタジオで始まったという経緯にも不思議な縁を感じさせます
ところで、今では一般的に使用される「印象派」という名前ですが、実は印象派の画家たちが意図的に計画したものではありませんでした。
第1回の展覧会で作風の革新性から多くの酷評を浴びることとなり、その酷評のなかでも有名なのが、画家のルイ・ルロワが風刺新聞に掲載した、展示作品であるクロード・モネの『印象・日の出』に対する皮肉交じりの論評です。
このルロワの風刺文が、「印象派」という呼称の由来・語源となります。
クロード・モネ『印象・日の出』 1872年
ルイ・ルロワは、ジョゼフ・ヴァンサン(アカデミズムの画家)と一緒に展覧会に訪れ、その感想を語り合う、という体で論評します。
「ああ、彼だ、彼!」ヴァンサンは、98番の作品の前で叫んだ。「彼がいた。ヴァンサン父さんのお気に入り! あのキャンバスは何を描いたものかね? カタログを見てくれ。」
「『印象・日の出』です。」
「『印象』、そうだと思った。私は印象を受けたので、作品に何かの印象があるに違いないと思っていたところだった……何という自由さ、何というお手軽な出来栄え! 出来かけの壁紙の方があの海景画より仕上がっている。」
この会話にあるように、印象派の絵画は、単なる「印象」を手軽に描いただけの未熟な作品と見られ、ルロワの記事にも、小馬鹿にするニュアンスで「印象」という言葉が頻繁に登場します。
そのため、必ずしもモネの『印象・日の出』だけが由来というわけではありませんが、ルイ・ルロワは「印象」という言葉を使って彼らの絵を嘲笑し、「印象派」の名付け親として歴史に名を残すこととなったのでした。